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TEACHER INTRODUCTION
猪熊 泰英先生YASUHIDE INOKUMA
【現在の所属】
北海道大学大学院工学研究院応用化学部門  准教授
北海道大学WPI 化学反応創成研究拠点(ICReDD)主任研究者(兼任)
【受賞当時の所属】
東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻 講師
科学技術振興機構さきがけ 研究者(兼任)
2004年京都大学理学部卒業、2009年京都大学大学院理学研究科修了。
2009年より東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻助教、2013年からはJSTさきがけ「超空間制御と革新的機能創成」領域研究者を兼任。2014年から東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻講師を経て、現在は北海道大学大学院工学研究院応用化学部門准教授。2018年から北海道大学WPI化学反応創成研究拠点主任研究者を兼任。

研究の進歩と新たな挑戦 —Progress in research and New challenges—
2020.4.30
    「結晶スポンジ法」による分子構造解析の研究で永瀬賞 特別賞を頂いてから5年が経とうとしています。当時は構造解析の成功例も少なく、研究者の中にはこの技術に対して懐疑的な見方をしている人も少なくありませんでした。しかし、「目に見えない分子の構造が知りたい」というニーズは国境を越えて多くの研究者を巻き込みながら「結晶スポンジ法」を急成長させてきました。現在では、世界中から新たな結晶スポンジ法の研究報告が相次いでなされており、企業でも実用化に向けた取り組みが始まっています。
    結晶スポンジ法は、1ナノメートル(10億分の1メートル)程の孔が規則正しく無数に空いた結晶(細孔性結晶)に対し、構造を知りたい分子を導入し、孔に沿って配列させることで単結晶X線構造解析を可能にするという方法です。単結晶X線構造解析は、分子の詳細で精密な構造情報を得るための強力な分析手法です。しかし、この手法の恩恵にあずかるためには化合物の単結晶を得る必要があります。この単結晶を得ること(結晶化)が難しかったために、単結晶X線構造解析は十分に活かし切れていない状況にありました。私たちの研究グループが世界に先駆けて開発したのは、数マイクログラムの化合物を一辺が0.1ミリメートル程の結晶スポンジ一粒に導入し配列させることで、従来の結晶化プロセスを経ずに単結晶を得るという技術でした。この手法では、孔の大きさや形が変われば構造を知ることができる分子の種類もどんどん増えてゆきます。しかし2015年の受賞当時、分子の構造解析に利用可能な結晶スポンジの種類は、わずか2〜3種類しかありませんでした。
    結晶スポンジとなる素材の幅を広げるために、私たちは新しい細孔性結晶の合成を報告したり、結晶構造のデータベースから結晶スポンジとなり得る構造を探し出すための選定基準を発表したりしました。特に、データベース検索による方法では既存の細孔性結晶も条件次第で結晶スポンジとして使えることが示され(図1)、敷居の高かった本手法が他の研究者にとってより身近なものになりました。すると、世界中から結晶スポンジ法の成功報告が学術論文に多く掲載され始めました。その中には私自身が不可能とさえ思っていた、タンパク質でできた巨大な孔を持つ結晶スポンジまでありました。解析対象の化合物も、常温で気体のものから爆発性の化合物まで、これまで困難とされていた化合物の結晶構造が次々と解析されています。今後は、結晶スポンジのライブラリを構築することでより多くの分子構造を迅速かつ正確に知ることができるようになると期待されます。
    さて、私は2016年4月に北海道大学へ異動し、自身の研究室を運営しながら新しい研究に挑戦する機会に恵まれました。まだまだ道半ばの研究ではありますが、毎日が困難とワクワクに包まれた新しいチャレンジについても紹介させて頂こうと思います。
    私は、「結晶スポンジ法」という研究をやっておきながら、結晶学を専門とはしていません。私の専門は有機化学です。有機化学とは、自在に分子を創り出すための学問です。世界で誰も創り出したことのない新しい分子を合成することが大好きで、私はこの分野に足を踏み入れました。構造解析はもちろん重要だけれど、有機化学者として新しい分子を創る研究も続けていきたい!新天地での研究プランを考えていた時に、そんな想いが湧いてきました。では、どんな分子を創ろうか?
    悩んで、悩んで、悩み抜いた末に出てきたキーワードが「ひも」でした。実は、ひも状の分子と言えば「結晶スポンジ法」の初報で“世紀の間違い”と言われるほどの構造解析上のミスを犯してしまった化合物です。しかし、この間違いの中に「ひも」分子が持つ最大の魅力が隠れていました。それは、構造が柔軟であるため自在に形を変えられるという性質です。2016年に永瀬賞 最優秀賞を受賞された伊丹健一郎先生が繰り出す美しい分子を構造的に硬いベンゼン環を繋ぎ合わせた「積み木(ブロック)」と例えるならば、私が目指す分子は「粘土」のようなひも分子です。
    あらゆる構造を創り出すことができる分子の世界の粘土ひもを目指して、ここ数年間は全力で有機合成に取り組んできました。その中で、構造の変化と制御が可能な「カルボニルひも」という化合物の開発に成功しました(図2)。この名称の由来となったカルボニル基とは、炭素原子と酸素原子が二重結合した官能基です。このカルボニル基が構造的にしなやかな炭化水素の鎖の上に多数存在することで、「カルボニルひも」には水素結合や配位結合といった比較的弱い相互作用が多く働きます。この弱い相互作用が、分子同士をペタペタくっつけたり、誘起した構造を保ったりするのに役立ちます。これは粘土でできたひもと同じ性質です。このひも分子と化学反応を駆使して、ひもがコイル状に曲がった構造や織物のように入り組んだ繊細な構造を創り出すことに成功しました。さらに最近の研究から、「カルボニルひも」から出来上がる化合物の中には発光やイオン伝導といった機能を発現する材料として使えるものがあることも分かってきました。
    分子の構造を知ることは、何故重要なのか? それは、分子を基盤とするあらゆる研究が分子の構造を基に設計され解析されるためです。分子は目に見えないからこそ知りたい、手に取れないからこそ自由に創り出したい。そこには科学者たちの飽くなき挑戦があります。分子の構造を調べる手法に端を発した私たちの研究は、その構造解析手法を武器に、新しい分子の“カタチ”を創り出すステージに入っています。これから、どのようなカタチが現れ、何に役立てられてゆくのか? 小さな世界のものづくりには、大きな夢がたくさん詰まっています。
図1.データベースから発見された結晶スポンジの構造(左)とその結晶の顕微鏡写真(右上)、結晶スポンジ法によって決定された分子の構造(右下)
図2.分子の世界の粘土ひも「カルボニルひも」の分子構造